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自陣成駒について考える

先日からずっと煙詰のことを書いていますが、今日もそのことについて。

今回の逆算は序盤(創り手にとっては終盤)で割と余裕があり、幾つかの完成案がうまれました。しかし、どの図をもって完成とするかが悩ましいのです。

悩む要素として挙げられるのは、例えば「手数が伸ばせる利を取るか、自陣成駒を減らす利を取るか」。でも、「不自然な自陣成駒がないからよい」という感覚は僕にはイマイチわからないのです。自陣成駒を全く置かないというのは創作技術としては難しいので、「難しいことを成し遂げた」という観点からは評価されるべきものだとは思いますが。

上のように思う理由ですが、自陣成駒が不自然だと仮定して、じゃあ4段目のと金は自然なのでしょうか?この「不自然」というのは指将棋の立場からみた評価だと思うのですが、指将棋で4段目まで成駒を引かれることってありますか?先日、たまたま24で成桂を4段目まで引かれて、4枚美濃+成桂を完成されてしまいましたが、こんなことは1000局に1回あるかどうか。

しかし、その一方で「香桂銀の成駒は(配置地点がどこであろうと)不自然」というのはわかる気がします。結局は主観によるところが大きいのかもしれません。

思いつくままに書いているので、今ひとつ論旨がはっきりしなくて申し訳ありませんが、そういうわけで、悩んでいます(笑)

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僕の見解では、駒種を問わず手数を問わず、小駒成駒配置の妥当性で悩むのは無意味です。
そもそも小駒成駒否定論は、実戦に近い方が良いという程度の論拠しかないと思うのですが、よく考えてみれば、詰将棋は始まった時から指将棋とは別世界です。だってスタンダードが「単玉」なんですから。
例えば、煙詰で盤面一杯に配置が広がっていて単玉なんていう作品がよくありますが、実戦将棋に近くなければいけないとしたら、これは成銀成桂以上に失格です。それどころか、実戦型と称する作品ほど単玉表現をしたがります。
つまり成駒を気にすると、その前に単玉を否定しなければいけなくなる。しかしそれは明らかにナンセンスですから、成駒を気にする必要も全くない。
でもこの見解、我ながらどう見ても異常感覚ですねぇ。しかも最近出題された自作が、実は自陣小駒成駒を使えば枚数を減らせそうな事に気付いたばかりだし(^^;)

こんにちは。コメントどうもです。

そもそも詰将棋は単玉なんだから実戦に似ている必要がない
よって、小駒配置に悩む必要はない
という論理は、この部分だけにおいては100%正しいと思います。

でも、「不自然な自陣成駒(特に銀桂香)は好ましくない」
という価値観は、詰将棋400年余の歴史のなかで、
指将棋との類似性云々とは別の原因
(初期にあまり使われなかった流れが継承されている?)
によって固定化されてしまっているので、
実際はその辺との折り合いをどうつけるかが難しいと思います。

難しいですねえ。

なにやら意味ありげな不自然な成駒が配置してあって、どうしてもその駒が気になるようにできている。でも、実はそれはただの罠……という作品はどうかな?

なるほど、、攪乱ですか。
では「と金」を4枚要する作品ができたら、
ためしに全部成桂と入れ替えてみますか(笑)
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